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通学者 ENLISTED MAN

一般大を出て入る部外幹部候補生の同期40名のなかでぼくだけが防衛庁の内部部局(内局)や航空幕僚監部(空幕)がどういうところかを多分に視覚的な雰囲気としてだが知っていた。幹部候補生学校に入校する直前まで防衛庁内に所在する気象部隊で4年も勤務していたからだ。それが幹部候補生としてのなにかの役に立ったのかと言えばそういうことはひとつもなかったしむしろだからなんだそれがどうしたと言われかねないような話なのだが、幹部候補生学校に入って防衛庁時代にはまったく意識することがなかった自衛隊の中枢での勤務というごく少数の自衛官しか持てない履歴を誇るようになっていた。それは自己の確立というような青年の初々しい精神的成長などではなくて、では単なる自慢かというとそういう純粋で無邪気な自己満足でもなく、同期生のなかにいた東大、東工大、早稲田、慶応、同志社、立命館といった一流大を出ている連中に気後れしないようにと身構えた空虚な優越感だった。それが自己防衛本能の意識されない発現だったとするなら、ぼくは幹部候補生学校に入ってもそれを身に着けた自衛官と大学生という二足の草鞋を履いたような防衛庁時代の延長線上にまだ自分を置いていたのかもしれない。


 幹部候補生学校に入る前のぼくは保安管制気象団気象群東京気象隊の気象観測員だった。東京気象隊は空幕と内局を支援する部隊でその任務の性格上気象観測員には新隊員からの配置はなく1任期すなわち入隊から3年を過ぎた空士長以上で飛行場での気象観測経験を積んでいるスキルが5レベル以上の隊員が配置された。その日々の業務のなかには空幕と内局の各階の廊下に天気図を掲示するという作業があった。ほかに空幕の運用課にいるふたりの気象幹部(2等空佐と1等空尉)のもとへ様々な気象資料を届けることがよくあったし空幕や内局のいろんな部署たとえば空幕装備部調査第2課というようなところにも気象情報を持って行った。あとは予報官の手伝いと雑用をした。つまり防衛庁での勤務と言ってもなんのことはない単なる使い走りで内局や空幕の廊下を時々うろちょろしていただけなのだが様々な部署に出入りしてその“副作用”としてそこがどんな仕事をしているのかは知らなくても部屋のなかの様子からどんな雰囲気のところかを知っていたし夕方5時を過ぎるとどの机にも1等空尉が用意する氷を入れたグラスが載っているのを見ていた。

防衛庁で勤務する自衛官の階級構成は部隊とは逆で一般隊員が街中の川に出て光るヘイケボタルほどに少ないのに対して幹部自衛官は8月の暑い盛りに公園で鳴くアブラゼミのようにたくさんいた。一般隊員が敬礼に挙げた右腕を下す暇もないでは困るからなのか驚いたことに敬礼は省略というより禁止だった。屋外に出るときでも帽子を被らなかったし勤務時の服装は作業服ではなく常装いわゆる制服を着用した。毎日のようにどこかの国の大使館員や駐在武官がやって来たから一般隊員にもネクタイを結んだきちんとした格好をさせたかったのだろう。 

そんな人数の少ない一般隊員だがほとんどは“曹”で“士”は隊員食堂にでも行かない限り見つけられなかったがそれも陸士ばかりで海士や空士は極めて稀な希少種だった。ぼくが空士長のころは身長170センチの引き締まった体にぴったりの制服の左袖上腕に付けた銀モールのV字三本重ねの階級章とその下の袖口近くに付けたやはり銀モールで45度右上がりに傾いた棒状の空士の精勤章三本が特に冬服では紺の生地によく映えてカッコよくしかも二十歳を過ぎてまだ1年の若くてイケメンだったから内局や空幕の廊下を歩いてもエレベーターに乗っても部隊を知らない事務官だけではなくついこのあいだまで部隊にいたはずの幹部自衛官までがなにか絶滅危惧種の小動物でも観察するような目でジロジロぼくを見た。それは悪い気がしなかった。部隊経験のある一般隊員ならここは別世界で自分が特別な存在だとだれもが自然に意識したにちがいない。それはとんでもない勘違いだったがぼくは得意気に胸を張って防衛庁内を闊歩した。自分でイケメンと言うのは図々しいですか、得意気に闊歩するだなんて大袈裟に聞こえるでしょう、それにどうでいいことをクドクドと詳細に書いたりして・・・。でもせめて外ではそうやって気分を高揚させていたかった。気象隊内ではまったく逆と言ってよい現実があった。

東京気象隊は隊長室と総括班は空幕の3階にあったが予報室は海上幕僚監部(海幕)の地下でそこがぼくの職場だった。ぼくは海幕の地下へ下りる階段の上に立つだけで気が滅入った。地下は空気が悪かった。壁につけた殺菌灯の陰気な青い光が夜になるとヂヂヂーと耳障りにうめいていたがぼくが言うのはそんな物理的環境のことではない。通学者だったぼくには周囲に通学者だと意識させない努力つまり、ぼくは仕事一筋です、という姿勢をはっきり見せることが必要というより要求されていた。
 東京気象隊の総勢は25人ほどで隊長を含めた予報官である幹部自衛官4人のほかは一般隊員だった。そのうち気象観測員は1等空曹がひとり2等空曹がひとり3等空曹が4人でそこへ空士長のぼくが加わった。また10人余りいた営内居住の若い隊員の多くは夜間大学もしくは夜間専門学校へ通っていた。そういう立地の部隊だったからでそういう希望者が人事されてきた。ぼく自身がそうだった。防衛庁は陸海空を問わず一般隊員の通学を奨励していたようだが現場が通学に配慮しているとは通学者の側からはとても思えなかった。そこには人員に余裕がなく通学者はどうしても負担になったという事情があったが通学者自体に問題がないとは言えなかった。
 
気象観測員と通信員はシフト勤務で夜勤があったが通学者のなかには仕事よりも学校を優先させる態度をあからさまにとる者がいたし、甚だしきは地元選出の国会議員にコネを使って取り入り上層部を動かして通学の便宜を図らせ夜勤から逃れた。それはひとりかふたりという極めて少数だったがただでさえ負担になっている通学者がそういうことをすればまわりがよく思わないのは当たり前で辛く当たるか徹底して無視した。いじめと言えばそうだがしかしどっちが悪いのかは簡単には決められない。ただそういう者が常にいたとなればそれが通学者の印象として定着した。つまり新しく通学したいという者が人事異動で来るという情報だけで古参の空曹たちは条件反射的に警戒した。

新参者にはそんな事情などわかるはずがなかったからぼくははじめ意味がわからず困惑した。どうしたらいいのかわからなくなって直属の上司だった観測班長の賀川1尉にふたりきりになったときに相談したが話しているうちにぼくにも覚悟があるというようなこと言ってしまった。賀川1尉は落ち着いた声で穏やかに、そういうことを言うもんじゃない、わたしはおまえをよく知っているからわたしにならなにを言ってもいいがおまえを知らない人が聞けばどう受け取るかわからんぞ、いくら正論でも自分が不利になるようなことは決して言ってはいかん、と諭すように言った。この人は部内出身の40歳で空幕がもっと気象予報に詳しい者はいないのかと要求したことを受けて府中の気象群本部がそれならと東京気象隊に送り込んだ航空自衛隊随一の優秀な気象予報官だった。でも電話で話しているのを聞いていると、そうです明日は稍重(ややおも)です、なんて言っていたから予報に詳しいということのなかには馬場の状態も含まれていたようだ。もちろん賀川1尉は競馬などしなかった。パイプたばこが趣味の堅実な人だった。それはともかく、賀川1尉はぼくと同じ日に東京気象隊に配属になったがその最初の日、緊張で畏まっているぼくに、今日来たんだよな、わたしもそうだ、新米同士だなよろしく、と言って笑った。いつもぼくの味方でいてくれたがぼくより1年早く東京気象隊を去って元の気象群本部に戻った。
 代わって観測班長になったのは入れ替わるように第8航空団がいる福岡の築城基地から来た松田1尉という頭が切れるそしてちょっと気が利きすぎる部外出身の30代前半の人だった。奈良を受けるんだろう、といきなりぼくに聞いた。ぼくは4年生になっていた。奈良というのは航空自衛隊の幹部候補生学校のことで、隊内ではおくびにも出さないでいたから答えずにいると、顔を見ればわかるよ、で勉強はどうしている、とさらに聞くから、ええ、まあ、とはっきり言わないでいると、心配するなだれも聞いていない、いいか、受験するやつは理系もいれば文系もいる、ということはだ、どちらにも有利にならないような問題が出るということだ、ということならレベルはどこにおく、みんなが横一線に並んでいたところ、もうわかっただろ、高校卒業時だよ、と目から鱗のようなそれでいてよくわからないようなアドバイスをしてくれた。ということは国立大の入試みたいなものか、なら大変だ、と思ったがどんな試験かを経験者が自分から話してくれたことは嬉しかった。筆記試験は10月だから受験まであと半年だったが倍率は陸海空で採用人数が一番少ない空が一番高く毎年20倍以上あった。思い起こせばぼくは自衛隊ではどこへ行っても上司に恵まれた。心が前向きだと良い出会いが向こうからやってくるようだ。人生はどんなときも前を向いていればなんとかなるものらしい。

ひと月ほどして目も慣れて様子がわかってくると上手くやっている人を見習うようになった。多くのことを学びそしてなにも考えずに真似たがこれでいいのかなと思うこともバカバカしいと思うことも度々だった。一方でそれはときに挫けそうになることもあった意志を持続させ普通に4年で卒業するのは入学者の半分以下だった理工系大学夜間部の最短での卒業を実現させてくれた。

部隊でのほとんどうわべだけの良好な人間関係に真に楽しいことはなにもなかったが大学の教室には似たような境涯の仲間がつまり自衛官がふたりもいてそれが東京での唯一のなぐさめになっていた。ふたりともぼくと同じ航空自衛隊の一般隊員(enlisted man)だった。かれらふたりと知り合ったきっかけは入学してひと月ぐらいたったゴールデンウイークが過ぎて間もないころのある日ひとりの学生がぼくに声をかけてきたことだった。
 ひょっとして自衛隊さんじゃない。
 そうだけど。
 やっぱり、むこうにお仲間がふたりいるよ、今呼んでくる。
声をかけてきたのは野暮ったい服を着てちょっと腹も出ていて大柄だが優しそうな顔の青年で旗君といった。埼玉の飯能から西武池袋線と地下鉄を乗り継いで通って来ていたが西武線の同じ電車に稲荷山公園から畑瀬君と山元君という入間基地所属のふたりの自衛官が乗り込んできたのだった。畑瀬君は飛行点検隊整備小隊のぼくよりふたつ年上の空士長で山元君は入隊してまだ2年目の輸送航空団第402飛行隊整備小隊の1等空士だった。ふたりとも航空機整備員だが好青年だとひと目でわかった。

ぼくら四人は教室ではいつも一緒だった。学校が終わるのは夜の10時半近くだったがそれが土曜日でシフト勤務のぼくも翌日が早朝からの勤務ではないならぼくも入間のふたりも特外の外出許可証を持って出てきていたから喫茶店に行ったり食事に行くこともあった。特外というのは特別外出で外泊が許可されていた。そのころの喫茶店はどこでもテーブルがインベーダーというテレビゲームになっていたからやらないということはなかったしお茶の水に回転寿司が登場したばかりで便利なものができたと食べに行ったがそこまでだった。ディスコの全盛期で遊ぶところも飲み食いするところもどっちに向いて石を投げても必ず当たるほどたくさんあったがぼくらは行かなかった。そんなところでなにかトラブルにでも巻き込まれて懲戒処分の対象にでもなれば苦労して入り必死の思いで通っている大学に行けなくなる可能性があったから自重したのかと言えばそれほど行きたいとは思わなかったしそれよりぼくらは特にぼくは貧乏だった。給料は授業料、交通費、食費、下宿代、隊内でのつきあい、そして勤務を代わってもらった“お礼”にほとんどが消えた。

 お礼というのはどうしても出席しなければならない講義たとえば体育や語学また工学部だから実験や実習がある日は個人的に交渉して夜勤を交代してもらいそのお礼として帰りにマクドナルドなどを買ってきた。そのお礼はその人の分だけではなかった。要求したみたいだと言って受取ってくれなかったのだ。そうかこれは“付き合いだ”と思ったから自分の分も買いさらに一緒に夜勤をしている通信員や隣の部屋には陸上自衛隊もひとりいたのでその人の分も買って来た。陸上自衛隊というのはやはり気象部隊で陸曹が5人ほどいたが夜10時ごろまでひとりが勤務していてぼくはむしろその人たちとよく話もして仲が良かった。そしてその勤務の交代はその日の夜勤丸々ではなかった。必要な時間だけ代わってもらうのだがそれが3時間なら相手の6時間を自分からそう言って交代した。それでも交代してくれる人はありがたかった。ちなみにそこまでして学校へ行って休講だとがっかりするより自分はなにをしているのかと自嘲した。それが4年生になると勤務割を作る1等空曹がそれまでこちらから言うことも躊躇した休めない講義がある日を向こうから聞いてくれるようになった。もっともいつも希望通りになるとはかぎらなかった。また日勤の2等空曹はだれも交代してくれないなら自分がやってもいいと言ってくれた。2等空曹にお願いしたことはなかったが言ってもらえたことが嬉しかった。いずれも3年間辛抱して得た大きな勝利と言えたが通学者に無条件で敵意むき出しの人はやはりいたから卒業までは引き続き気は抜けなかったし意味のないことも一所懸命にやった。たとえばスキルレベル最上級の7レベルを取る特技試験は合格する必要がまったくなかったが一発で合格した。しかし一緒に受けた同僚が落ちてしまい、通らんといかんやつがダメでおまえが通ってもな、と1等空曹に言われて思慮の足りない余計なことをしたような気がした。
 それから下宿は勉強をするためにひとりでいられる場所がほしくて1年生の秋から荒川区西尾久の荒川遊園地の近くにある学生用の下宿屋に部屋を借りていた。シフト勤務だったから翌日が朝からの勤務になっていない日は学校が終ると下宿へ行った。入間のふたりも基地の近くに週末を過ごすための下宿を持っていた。

 こうして窮してはいたがボーナスがあったので服を買えたしスキーにも行けたし古刹巡りの旅行もできたし本も買えた。そのころのぼくは読書家だった隊長の真鍋2佐の影響で年間100冊ほどを買って読んだ。ぼくにしては多い読書量でなにもすることがない地下鉄のなかでよく読んでいたが生涯でもっともたくさんの本を読んだ時期になった。

 通学で最大のピンチは空曹への昇任だった。ぼくは、学校は二の次で勤務を優先しています、という姿勢を見せるために悲しいことだが本心を隠した。しかし3等空曹への昇任試験だけはそれではちょっとまずかった。試験に通れば教育隊へ2か月も入らないといけなかったから落ちた方が得策で通学する者はたいていはみんなそうした。例の国会議員に取り入って夜勤をしなかった男もまたそうやっていたがそれでも留年して卒業がぼくと一緒になった。その男はあるときぼくに向かって、航空自衛隊の幹部候補生学校を受けるつもりなの、陸上にした方がいいんじゃない、倍率が低いよ、と言った。この男とは仲は悪くなかったが、倍率でどこを受験するかを決めたりするものか人を愚弄するにもほどがあるこっちには志というものがあるんだおまえとはちがう、とこのときばかりはさすがに腹が立ったから、絶対通るんだと決意して受けても落ちるかもしれないのにはじめからそんな気持じゃ通るはずがない、と言ってやった。その男は海上自衛隊の幹部候補生学校を受けて落ちた。創作のように思うかもしれないがそうではない。ぼくにそんな“芸”はない。「通りがかりの者です」の記事はこの記事に限らずすべてみっともないことも失敗したことも自慢話になってしまうかもしれないことも人に読まれることを気にせず恐れず本当にあったことを覚えているままに書いている。
 ぼくは通るとまずいことになるとわかっていた半年ごとに受ける3等空曹への昇任試験を真面目に受けてやる気を示した。といってなんの努力もしなかったが筆記試験はいつも気象群内のトップだった。どうせ上が詰まっているからまだ大丈夫とのんきに構えていたらそれが1年生の冬に昇任してしまい年末年始の休暇が終わった1月から埼玉は熊谷の第2航空教育隊の初任空曹課程に入った。そのために土曜日以外は通学できなくなった。問題は後期の試験でなんとか受けられるようにならないかとこっそり隊長に相談した。すると空幕から教育隊の学生隊長宛てにこの隊員は夜間大学に通っているから定期試験を受けることができるよう配慮を強く要望するという内容のお達しが下りて試験を受けることができた。それは上からの圧力と言ってよかったから区隊長や班長が苦々しく思っていたかというとそういう感じはなくて区隊長は特幹といって長く1等空曹をやってきた人が特別枠で幹部自衛官になった年配の3等空尉だったがぼくに対する態度がちがったということはなかったしまた班長もやはりぼくへの態度にみんなとちがうところはなかった。この班長はぼくと同い年の航空学生を訓練途中でコースアウトになり教育職に変わった2等空曹で教育訓練修了後、君の方がたぶん先に幹部になるだろうな、と言って笑って送り出してくれた。

 午後の前段の訓練が終ると着替えて外出し国鉄高崎線の籠原駅まで歩いて行き電車に乗って東京へ行った。試験を受けて基地に帰るともう夜中の12時近かった。忍び足で真っ暗な居室に入り物音を立てないように服を脱いでベッドに潜り込んだ。試験期間中の5日間ほどをこうして通学したからきついと言えばきつかった。受けていない訓練があったから成績順位は下がったが順位などぼくには意味がなかった。銃剣格闘(銃格)の練習時間も通学で少なくなったが昇段審査では、対戦した相手があんまり弱かったからだろう、初段を飛び越えていきなり2段がもらえた。よかったと言えばよかったが銃格は航空自衛隊ではほとんど評価の対象にはならない。幹部候補生学校に入るまで銃格の練習も試合もやったことは一度もなかった。
 それで肝心の大学の後期の試験はどうだったのかというと教育隊にいて毎日くたくたになって試験の勉強などろくにできなかったが落としたのは機構学だけでしかし必修課目だった。2年生には上がれたが機構学の再履修は同じ時間に他の必修課目があって講義に出ることができずに試験だけ受けてAをもらった。同じ試験問題だった。

こうしてぼくは畑瀬君と旗君と一緒に無事4年で大学を卒業したが山元君は2年で退学して故郷の沖縄に帰っていた。1任期が終わり更新を希望しなかったからだが畑瀬君の話では部隊でのいじめに耐えられなかったようだ。山元君は真っすぐ過ぎる性格でぼくや畑瀬君ほどうまく立ち回ることができなかった。

畑瀬君のその後はというと、大学に入ったときは空士長も4年目だったが3等空曹になっても無意味だ学業に障るだけだと昇任試験にわざと落ち続けていたがいざ卒業が近づいてみるとその後の進路に悩んだ末に自衛隊に残る道を選び空士の契約更新がもうできない年に近づいていたから卒業後の最初の昇任試験を真面目に受けて元々優秀だからすぐに3等空曹になった。そして自分から希望したのか部隊の都合か新編のE-2Cの飛行警戒監視部隊第601飛行隊へ移った。

幹部自衛官になってから畑瀬君と一度だけ会った。306飛行隊の整備小隊付の2等空尉だったとき11月末に1週間の日程で行われた青森の三沢基地への移動訓練に整備班の指揮官として参加したがその三沢基地に畑瀬君の勤務する第601飛行隊がいた。畑瀬君は結婚して基地の外に出ていたからお宅にお邪魔した。新婚で羨ましくなるほどきれいで料理のうまい奥さんをもらっていた。話したいことはお互い山ほどあったが泊まっていくわけにもいかずもう帰らないといけないという時間ぎりぎりまで話した。
 三沢には幹部候補生の同期がふたりいたからそいつらとも会って古牧温泉に行ったりしたが三沢にはもうひとり懐かしい人がいた。6空団修理隊でエンジン小隊長だった梅野1尉だ。第3航空団の整備補給群本部にいた。梅野さんも結婚していたがやはり新婚ほやほやで背の高いスレンダー美人の奥さんの手料理でもてなしてくれた。ぼくは昔からどこへ行っても美人に出会った。この三か月ほどあと、翌年の3月11日に306飛行隊を最後として18歳のときから11年間在籍した航空自衛隊を退職した。

旗君は実家の仕事を手伝っていたが卒業後はどうしたのかは聞いていなかった。旗君はぼくと入間基地のふたりを結びつけてくれた恩人だったが、それにしてもはじめのころぼくは大学へはいつもVANのスーツかブレザーを着て行ったからどうしてぼくを自衛官だと思ったのかが不思議で聞いてみたことがあった。するとだれにでもわかるよという顔で旗君は答えた。だって髪を短くきれいに刈っているじゃない。 2025年4月17日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)    


enlisted manは志願兵つまり下士官および兵卒のことです。自衛官の認識番号はアルファベット二文字からはじまりましたが航空自衛隊のそれは幹部自衛官のAOと一般隊員のAEでAはairのAで航空自衛隊、OはofficerのOで幹部自衛官、Eはenlisted manのEで空曹長以下の一般隊員を意味しました。ぼくの認識番号は幹部自衛官になったときEがOに変わっただけで番号自体はそのままでした。遺伝子のひと文字が入れ変わると同じ生き物の見た目が変わるのと同じです。それなら幹部自衛官と一般隊員のちがいは同じ人格がなにかのはずみで立場がそうなったというだけのことでした。それは社会全般もまたそうで取締役だ平だ金持ちだ貧乏人だと騒いでみても人格そのものの話ではないと思えばこの世もいくらか気楽に生きられます。 2025年4月17日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)



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